亡き友 故福永徹へ
渡辺正和 (50年卒業)
30年前国立のテニスコートで福永徹君と初めてあったのは2年生の春だったように記憶している。君は高校時代には山口県の大会にもでた成績を残した実績を持つパワーに溢れた小気味のよいストロークが印象的であった。一年浪人したあと大志に燃えて入った一橋大学も当時学生紛争の名残でごたごたしていた小平の
Campusに目標を見失ったのか一年目は何故かJazzを聞いたり本を読んだりして無為におくったと後から聞いた。見掛けはニヒルでなんとなく怖そうなイメージをあたえるので入部早々に2年上の小宮先輩から親愛の情を込めて“ヤクザ”なるあまりありがたくないあだ名をつけられてしまった。
日本企業でも大学のクラブでも徐々に変わりつつあるものの組織の中へ中途で入ってきたものはそこの組織に順応するのに苦労するものである。ところがみかけとは裏腹に思いやり溢れる君の人柄は同期の仲間にすぐに溶け込み後輩思いでもある君はたちまち頭角を現して翌年からはサブキャプテンとしてリーダーシップを発揮してくれた。三商大戦や国公立戦などで健闘はしたものの残念ながらわれわれの在学時代はリーグ戦での成績はあまり振るわず誇れる戦績を残すことはできなかった。それでも練習した時間やその密度の濃さなどで十分努力したうえでの結果であったので今となってはこれも懐かしい挫折感であったように思う。
君とは証券市場論の木村増三ゼミで一緒であったこともあり、テニスコート外の付き合いも思い返せば書き尽くせないほどつぎからつぎへ頭によぎって来る。授業を抜け出して邪宗門とかロージナなどの喫茶店でたわいもない話をしながら何時間もいすわったり、ゼミを終わってミドリで麻雀する仲間を紙を回してあと二人かき集めるのに苦労したり、なけなしの金をはたいて二人で北海道に行ったりした楽しい思い出は一生忘れることはできない(礼文島で君がとても気に入っていた上智大学の娘には結局なにも話せずに終わったしまったことをいつか言っていたのをおもいだした)。
社会人になって早々から勤務地がなかなか一緒にならずに何年か一度に会えばジャズを聴きにいき、カラオケのマイクを奪い合ったことは学生時代と二人とも変わることはなかった。君が最初に病気で入院したのを知ったのは1995年に僕がワシントンの世界銀行の勤務時代に当時アムステルダムに勤務していた君を訪ねる予定にしていた時であった。その直前にお母さんと妹さんが日本から遊びに来ていたと聞いていたが突然自宅への連絡が取れずに事務所に問い合わせると、急に日本に帰任したとのことであった。幸いにこのときの患った結核は完治して98年から大阪勤務に変わって関係会社の支店長として張り切って赴任していったと中前君からきいたので安心していた。せっかく最初の大病を克服したのに、返す返すも残念なのは癌の症状を自覚して病院に入ったときは手遅れであり一昨年春48年の短い生涯を終えてしまった2年前の6月は呆然自失になってしまった。
生涯独身でとうした君は僕や大学時代の仲間の思い出の中で学生時代のままである。短い一生ではあったが自分の思うままに自分のペースを乱さず、人に迷惑をかけず、決して裏切らずに彼を知る人に爽やかな印象を残してくれた鮮やかな日本人であったと思う。
好球会という卒業年次の近い軟式庭球部の集まりがこの5月から発足する事になった。きっかけは色々とあると思うが、皆が50歳前後になり自分の人生を振り返って更にこれからの人生を考えたときに楽しかった青春時代に苦楽を共にした仲間と再び集まりたいとの願いがあったのではないかと思う。
最初の集まりは5月27日福永君の三回忌にあたる日になった。如水会館の一橋クラブは盛況であった。忙しいなかにも拘らずみずほの新橋、麹町の大支店長〔藤本さん、白方君〕をはじめ鈴木君、松山君が早々に15人分のせきとりをしてくれた。渡辺先生とか小宮さんも先約を早めに切り上げて参加してくださった。
会長に就任してくださった竺原さんがとつとつと思い出を語ると万感が胸に込み上げて涙が一筋ながれた。やっぱり福永はたいしたものだと思った。25年振りにあった先輩や後輩と話すうちに福永がこのような集まりを仕掛けてくれたのだと確信した。
ありがとう福永徹君、ぼくらはもう少し再結集した仲間と楽しんでから君と再会することにしたい。それまで君の大切なお母さんや妹さんと共に我々のことも見守っておいてもらいたい。