随想

商学部4

岡村岳

 

私は本校の数学の期末試験にて、「替え玉」受験を疑われたことがある。替え玉を仕込んだにしては私の答案用紙は真っ白であったが、真っ黒に日焼けした私の容姿が、机に置かれた学生証のそれと違うことに教官は疑問を抱いたようだった。他の学生がペンを走らせる中私は小声でこの教官に、この大学に入るにあたって大変な苦労をして勉強を頑張ってきたこと、それ故に過酷な浪人生活の中では運動などろくに出来ないのだから身体は細く白いのは当然であること、そしてこの大学では体育会に入って一生懸命部活をしているから「精悍になった」ことを必死に説明した。

 私よりも先に卒業されていった諸先輩方は自分なんかよりも遥かに「精悍」であった。しかし、私が先輩方の随想を初めて読んだのは一年生の時であるが、どうにも懺悔というのか、反省文のように見えてしまい文章の中ではやけに女々しいなと感じていた。だがしかし、なるほど、自分に順番が回ってくると先輩方の気持ちがわかってくる。この四年間の中で次第に自分が背負う責任の大きさに気づき、さあどうしようかと焦り始め考えているうちに色々な選択肢が見えてくるのだが、その頃にはもう引退しているのである。

 結果が付いてくれば全てチャラになるのだろうが、なかなかそう上手くはいかないから、せめて自分は嘘偽りなくチームのために努力したか、と自分に問いかけると、「実はあのとき…」「もっとこうしておけば…」が溢れる。先輩方も同じように感じていたのだろうか。

 中学、高校とソフトテニス部に所属していたが、練習は自由参加で試合に出る際は挙手制だった。だから最初は体育会というものの全てが新鮮で、不慣れなことも多かったが、自分がそれなりにこの雰囲気にフィットするように矯正されたのは同期のおかげである。挨拶のタイミング、先輩の話の聞き方、後輩への接し方など半ば呆れられながらも根気強く教えてもらった。入部して一年が過ぎたある時、同期に「精悍になった」と言われたことを今でも覚えている。この部活に入って多少なりとも人間的な面では周囲に追いついてきたのかと、嬉しかった。

 体育会生活の中で最も充実した年は2年生の時だった。最上級生が卒業し空いた枠に運良く滑り込み初めてリーグに出ることが出来た。こんなチャンスに恵まれたことに、正直妙な気持ちでいたが、肝心の試合では天秤戦に負け結果的にチームは降格した。秋にはこれまた偶然にも1試合だけ当時の幹部が自分を使ってくれた。この時勝利したのは全てが周囲に助けられた結果に過ぎないが大変誇らしい気持ちで帰宅したことを覚えている。この一年は体育会をやっていて嬉しいことも悔しいことも両方を経験し飛躍の年になった。

 3年生は自分にとって試練の時だった。チームは降格し同期の皆がどうしようかと必至に知恵を出すが状況を打開するには、結局勝つしかないという結論になり、そのための具体的な方法をなかなか思いつかない。お昼過ぎから始まったミーティングは夜まで続いた。私はこの時殆ど有益な発言ができなかったことを後悔している。ほかの幹部との対立を避けた、というよりは状況を打開するようなアイデアや考え、が思いつかなかったというのが正直なところだ。むしろ、自分がこの部活にどう貢献すればいいのかがわからなかった。レギュラーをとられる、試合に負ける、それ以上に私にとって大きな挫折だった。3年生の私は客観的に見て、コートの外にいてもどこか自信無さげで頼りなく見えたと思う。この経験があったからこそ4年生は視界が開けた感覚があった。優秀な後輩に恵まれ、まさしく「おんぶにだっこ」であったが勝つ醍醐味を知った。

 尊敬する同期が私の最後の勇姿を動画に収めてくれていたが、たしかに私はこの4年間で「精悍になって」いた。

 後輩の皆はこの4年間のウェットな人間関係の中でよく周りを観察して欲しい。つらいことや嫌なことから目を背けた時、誰かが自分の不始末をフォローしてくれている筈だ。自分が正しいと突き進んだ結果思わぬ方向にことが運んだ時、誰かが冷静に軌道修正してくれている筈だ。私はテニス以外の場面で辛い出来事に遭遇したとき、「あの人ならどうするだろうか。」と思い浮かべるのはいつも部活の仲間のことである。

 最後になりますが、ここまでの4年間を支えてくださったOBOGの皆様、多大なるご支援本当にありがとうございました。私も今後はこの部の発展に貢献できるよう努力して参りますので宜しくお願い致します。