田原静次君を偲んで

平成7年卒 中村仁

2021107日。仕事がひと段落し、帰り支度をしようとしていたころ、訃報が届いた。突然の知らせにその事実をそのまま受け入れることができず、何か夢でも見ているのかのような気分であった。

 

同期の田原静次君。働き盛りの49歳であった。

 

同期で入部したのは田原君・小林君とのわずか3名。4年生が引退した1年次の後半は部員11名で試合に必要な5ペアぎりぎりの中、安定したボレー・スマッシュで勝ち星が期待できる彼は部に不可欠な存在。右肘に古傷を抱えていたが、痛みをこらえながらチームの期待に応えてきた。明るく朗らかな性格で、先輩からかわいがられ、後輩からも慕われてきた。

 

プライベートも共に過ごすことが多かった。

越谷の親戚宅から小平に通っていた彼は、当時小平に下宿していた1年上の田中先輩や私の下宿先にしばしば立ち寄ってきた。

一度田原君に得意のお好み焼きを振舞ったことがあったが、食べ終わってしばらくすると彼はトイレに駆け込んだ。症状から明らかに食あたりであったが、「朝のコンビニのパンの味が変だった」とかばってくれた優しさに、今でも申し訳ない気持ちである。

また、1年の夏、うだるような暑さの中、同期3人らは津田塾の方とディズニーランドに行ったこともあった。その時のメンバーの一人が、後に彼の奥様となる(旧姓津村)郷子さん。これが付き合うきっかけとなったかは一切教えてもらえなかったが。

 

その後、中小企業金融公庫(現 日本政策金融公庫)に就職。

社会人になってからは直接会う機会が徐々に減り、最近はメールや年賀状で一言近況を伝え合う状況が続いていたが、3年前のある日、久しぶりに届いたメールにはこんなことが書かれていた。

「胆管癌で手術を受けました。お互いに健康に気を付けましょう。」

3か月間仕事を空けた、一時15キロも減量したと書かれていたのだが、無事回復して転移もなく元の仕事に復帰したとのことで、再び彼が元気に活躍している姿を目に浮かべていた。娘さんも一橋大学に入学され、本人も単身赴任で福島支店長となり、仕事も家族も順風満帆に違いない、そう思い込んでいた。

丁度その頃同期三人は全員単身赴任をしており、都内に戻ったら久しぶりに同期会で近況やら赴任先の生活やら語り合おうなどと思っていたが、突然の訃報でかなわぬ夢となってしまった。

本当に残念でならない。

 

こうして田原君との思い出を紐解いていくと、学生時代の出来事がどんどんよみがえってくる。楽しいことばかりではない。部の方針を同期3人で話し合った際、国立のロージナで長い沈黙が続いたこともあった。

だけど、そんな出来事も含めて今では良い思い出。

私の心の中のアルバムには4年間の大学生活の1枚1枚に田原君の姿がある。

もう直接会うことはできないが、これからも心の中で親交を深めていきたい。

田原君、たくさんの楽しい思い出をありがとう。

 

 

ご冥福を心よりお祈りお祈りいたします。