芭蕉の奥の細道、2000㎞を歩く旅

昭和53年卒 杉村達也

「弥生も末の七日(新暦516日)、あけぼのの朧々(ろうろう)として……」、とはいかず午前10時すぎにちょき船ならぬ水上タクシーを浅草の船着き場で降りた。元禄2年(1689年)から327年後の同日10時すぎだった。

行く春や鳥啼き魚の目は泪、母と妹夫婦に見送られ2000kmの芭蕉の奥の細道の一歩を踏み出したのは今から5年前、60歳で退職して5か月後だった。歩くのが好きになったのはゴルフを始めてから。これ迄六甲山全山縦走、スペイン巡礼の道、東海道53次、ヒマラヤ、パタゴニアのトレッキング、さらに同期の吉川君とも山登りを楽しんできた。なぜ芭蕉の奥の細道かわからぬが北への憧憬か、父母の故郷である富山を歩ける事も理由だったかもしれない。

芭蕉が曾良と歩いたのは西行没後500年を記しての事。多くの歌枕を訪ねた。自分はそれをなるべく忠実になぞってみよう、といっても今や古い峠道はなくなり(トンネルや新道に置き換わる)川には橋も架かり旅は各段に簡単になっている。ゴアテックスの雨具、靴がある。わらじで未舗装の泥、砂利、岩道を一日最大50数キロ歩くのとは比べようもない。加えて山中を除きコンビニがあるのだ。

唯一不利な点は馬を使えない事か。

旅は一日目から大きな躓きで始まった。浅草から粕壁まで(芭蕉は草加と記すが誤り)30km歩いただけで足裏に大きな靴ずれができてしまった。いつもの素人療法、ライターで針を消毒、まめを潰し体液を絞りだし明日の朝痛みが軽くなる事を祈って就寝した。

翌朝痛みは少し引いたものの外は強い雨でその中を小山まで44km歩いた結果靴擦れは悪化。結局日光まで歩いたものの一旦自宅に撤収して治療に専念せざるをえず旅の再開には10日もかかってしまった。無理は禁物だ。

他に最も辛かったのは8月の酒田から富山までの道のり。芭蕉は「暑湿の労に神を悩まし、病起こりて事を記さず」と書いている。

思い出はたくさんありすぎる。登米でのラジオ生出演、一関から岩出山まで一日に50km超の歩き、最上川の渇水による川下りの船のキャンセル、2日間の月山登山、尾花沢のすいか、酒田砂丘のメロンの何とおいしかったことか。名勝は日光、那須の殺生石、松島、平泉、立石寺、出羽三山、永平寺、那谷寺等々歩いて訪ねる楽しさを満喫した。

そして102日、芭蕉が着いたであろう日、くしくも翌日は自分の61歳の誕生日であった。結びの地大垣に着いた。家内、娘夫婦が笑顔で出迎えてくれた。延べ62日、5ヵ月半越しの旅が終わった。寂しさと少しの達成感。今度は芭蕉が歩いた甲州街道を歩いてみたいものだ。

☆ちなみにこの後はイギリス人の友達と四国88か所1200kmの遍路旅を堪能。歩き旅に乾杯そして万歳!

 

)  出発地 千住大橋    行春や鳥啼魚の目は泪

)  立石寺   閑さや岩にしみ入蝉の声

)  最上川   暑き日を海にいれたり最上川

)  月山より鳥海山を望む     雲の峰幾つ崩れて月の山

)  結びの地大垣にて    蛤のふたみにわかれ行秋ぞ