田沼恭造君を偲ぶ

2021 年 2 月 8 日

内山 弘行(昭和 35 年卒)

 

2020 年 7 月の梅雨空のどんよりとした曇りの朝だった。 薄墨で書かれたはがきを受けとった。内容を見て息が止まった。 はがきは田沼恭造夫人から恭造君の死去の知らせであった。 そんなはずはないだろうと強く思った。 田沼は 2016 年春に検査で病巣が見つかり、手術を受けた。早期発見で手術も成功して幸運だった と喜び、療養に専念した。 2017 年 11 月に昭和 35 年卒の軟式庭球部 同期の”テニス仲間の会“のメンバーが夫人同伴で集ま り歓談した。宝塚在住の倉茂以外の 5 人全員が集合した。 田沼は闘病のため、からだが一回り細くなったようだった。それでも元気そうで、いつもの口調で静かに闘病

の経緯、近況を語ってくれた。 翌 2018 年 11 月に“テニス仲間の会”を開い た時にも元気な姿を見せた。彼はすっかり日 常生活を取り戻していた。 この時は仲間の加藤修平君が入院中で不参 加であった。皆で加藤の病状を気遣った。 2019 年は加藤が退院後でもあり、同期の会 は中止とした。 それでもメールではそれぞれ近況報告をし たり、中野のお孫さんがゴルフの全日本ジュ ニア選手権出場のニュースに盛り上がった。  宝塚在住の倉茂も中野や進藤の俳句を論評したりして、みんなでメールでの交流を楽しんだ。 2020 年春には加藤を交えて集まろうかと計画したが、突然の新型コロナ騒ぎとなり中止を余儀な くされた。そして、日本中がコロナ渦で外出自粛の最中に田沼の訃報を受け取った。 葬式の参列は勿論、ご霊前での挨拶もかなわないまま、遠くから冥福を祈るのみである。 田沼はテニス部ではマネー      2018 年 11 月 同期会での田沼夫妻(右は中野君)

ジャーとして大いに能力を発揮した。ずぼらな主将にとっては本当に 頼りになるパートナーであった。当時の軟式庭球部は先輩の数もまだ多くなく、部の運営費を捻出 するのに苦慮していた。毎年、ダンスパーティーを開催して資金調達をするのが恒例であった。 マネージャーの田沼は几帳面な性格と優れた実務能力でダンスパーティーを企画・実施した。 4 年春のリーグ戦の後に一流バンドの演奏で銀座のダンスホールを超満員にして大成功を収めた。 卒業してからも球朋会の年度幹事を続けてくれた。“テニス仲間の会”の世話役を一手に引き受けて 率先して歓談の場を設定してくれた。 現役時代は富士銀行国際部に所属していた。入社間もない時期にワシントン DC で同時通訳の訓練 を受け、ワシントン DC、ロンドン、チューリッヒ等で活躍し、国内勤務より海外駐在の期間が 長いという国際ビジネスマンであった。 引退後は趣味のバラ栽培に打ち込んだ。鎌倉の田沼邸の庭は各種色とりどりのバラで埋め尽くされ ていた。 「藤沢バラの会」に所属して、毎年のバラ展に出品して楽しんだと聞いている。 バラの時期に夫婦で鎌倉を訪れ、田沼夫妻と鎌倉古寺巡りをしたことがある。 田沼邸の庭に豪華に咲き乱れるバラの品種,それぞれの性格を丁寧に、楽しそうに説明してくれた 彼とのひと時を懐かしく思い出す。 2020 年は我々が 1960 年(昭和 35 年)に大学を卒業して 60 年の節目の年である。 しかし、最悪の年であった。 新型コロナウイルスが世界中に蔓延して最大の悲劇をもたらしている。 昭和 35 年卒の“テニス仲間の会”メンバーは 7 人であった。 十条製紙で活躍した田村健君は若くして鬼籍に入り、2020 年 6 月に田沼恭造君が亡くなり、 12 月に加藤修平君の訃報を受けた。一年に二人の仲間を失い、メンバーは 4 人となった。 親しい友との別れは本当に寂しく、つらいものだ。しかし、80 歳を過ぎた我々には避けて通れな い悲しい出来事であり、起こり得ることと受け止めなければならない。 これからは自分の残された人生を充実した、悔いのない日々を過ごしたいと思う。 そしてどのような事態になっても心静かに対応できるような気持ちを持てるよう努力をすること が肝要だと考えるこの頃である。

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