起橋俊男君 また会う日まで

 

昭和41年卒 秋山 靱彦

 

 

 

 2015122715時、起橋俊男君が亡くなった。享年73歳だ。昭和41年卒軟庭部同期のリーダー格であり、球朋会で中心的な役割を果たしてくれた人物でもあった。起橋君の逝去は私にとって悲しいというよりも、悔しいという思いが強い。73歳はまだまだ生きていなければおかしい年齢であるし、我々にとってかけがえのない存在を失ってしまったからだ。

 

 

 

 起橋君、君とは一橋大学入学以来の友人だった。君が亡くなった今、いろいろな思い出が走馬灯のように私の頭の中を駆け巡っている。君の強烈なフォアのクロスに打ち負けてしまったこと。コートで軽々とバク転をして周りを驚かせたこと。試合の前後のエール交換で美声を聞かせてくれたこと。合宿中にテニス教室で講師をしてくれたこと。三商大戦の打ち上げで同級生で合唱したこと。大山先輩(39年卒、故人)の家に行き、みんなでダンスの手ほどきを受けたこと。私の結婚披露宴で司会をしてくれたこと。私の妻の闘病中に、君の奥様から励ましの絵手紙を何度も頂いたこと。等々。

 

 数え上げればきりがないが、悔やまれることもある。君の沖縄時代(沖縄セルラー電話()社長)に、同期のみんなを沖縄旅行に呼んでくれた時に、私は腰痛のため参加できなかったこと。この沖縄旅行では、現地でのかゆい所に手が届くようなアテンドに、参加したみんなが大感激していた。君の気遣いの賜物だった。

 

 君は話術に長け、大勢を前にしての挨拶や講演の時の話のうまさにいつも感心させられていた。それが天性のものだと思っていたが、実際には、自宅で、何十回となく事前練習を繰り返していたという。また、もともとアルコールには強い方ではなかった君が、久しぶりに会って食事をした時、肴にはほとんど手を付けず、グイグイ水割りを飲んでいたのに驚かされたが、卒業後、涙ぐましい努力をして鍛えたことで強くなって行ったという。この話は、君の葬儀に唯一人の友人として私が参列した折に、家族の方から聞かされた話だ。恐らくこれだけではなく、いろいろなことに君が人知れず大変な努力をしていたことを、あらためて知らされた思いがした。

 

 君が開発銀行から日本移動通信(現、KDDI)に移り、時代の最先端企業の役員として活躍していた頃、球朋会のことで連絡をしようとしてもなかなか捕まらなかった程多忙な時代だった。ひょっとして、そのころの忙しさが君の体にダメージを与えたのではないかと思うこともあるが、こればかりはわからない。

 

 君が亡くなる前は、病気から来る痛みに苦しめられたようだったが、斎場で見た顔は、多少やせてはいたが、安らかな顔をしていた。今では、痛みから解放されて、静かに眠っていることだろうと思う。私もその内そちらへ行くから待っていてくれ。そして、いつも会えば言っていたように、「秋山、お前なあ----」という言葉を聞かせて欲しい。

 

合掌

 

 

 

尚、起橋君が球朋会で幹事長、会長を務め、関先輩と共に、球朋会の活性化のために大活躍してくれたことは、会員の皆様の等しく認めるところだと思うが、そのことについて書くことは、もっとふさわしい方にお願いしているため、ここでは割愛させていただきます。