随想

平成30年度卒 社会学部 澤部里菜

 1313敗。

リーグにおける私の総合成績である。この成績の捉え方は様々だろう。試合の出場機会に恵まれない選手もいる中、26試合も出場した点では十分な戦績である。しかしこの戦績は自分の期待からも、おそらく周囲の期待からも程遠かった。乱打をしていただいたOBの方にはよく「それだけ打てれば負けることないでしょ」というお言葉をいただいたが、実際には勝ちと同じだけ負けていた。なぜ勝てなかったのか。結局のところ、私には自分をコントロールする力が決定的に欠けていたからだ、と振り返って思う。

入部当初、未熟な私がよく口にしていたのは、「今日は調子がいい/悪い」という「調子論」である。当時先輩方を困らせたであろう「調子論」の背景には実物大の自分と向き合えない未熟さがあった。未熟な点を先輩方は驚くほど的確に指摘してくださったが、私が本当の意味でその指摘を理解したのは2年の春リーグである。当時の私は女子部の将来を悲観していた。――2年の秋で先輩方は引退してしまう、1個上も同期もいない。先輩方と同等の実力をもつ新入生を4人も入れることは難しい。本気で昇格を目指せるのはあと2回だ。次の春リーグ、先輩方は就活で忙しい。新歓もリーグも自分が先輩を押し上げるべきだ。――絵に描いたように気負った私はぎっくり腰を起こし、スランプに陥った挙句、前日入り前日に38度の熱を出した。結果何とか出場したものの全敗し、足手まといでしかなかった。「調子」の要因を分析する視点を欠いた私は、大失敗して初めて自分をコントロールする必要性に気づいた。

2年の春以降、自分をコントロールする方法の模索が始まった。引き継いだばかりの主将業や幹部とのやりとりに苦戦しながらも、自分を含むチーム全員が自己コントロールを図る方法について考える時間は充実していた。新歓期前の心配が杞憂に終わり、頼もしい後輩が4人も入ったことは、チームの活力を増幅させたと同時に私の心の支えだった。紆余曲折を経て迎えた秋リーグ、悲願だった優勝昇格を果たすことができた。「9人で戦い抜」いて得た昇格は4年間で最大の成果だった。しかし、自分は選手として出場することがかなわなかった。再び自己統制に失敗したからだ。自分で決断しておきながら選手としてコートに立てないという事実は苦しかった。

自分をコントロールできたと初めて感じたのは3年の春リーグである。2年の夏に学んだことが実行できた瞬間だった。目線や呼吸法など自分を落ち着かせる方法をうまく活用できた。他方でチームは降格ギリギリ、自分自身も負け越した。明らかな実力不足であり、自分の実力をさらに底上げすべく努力するべきだった。しかし私の目が向いたのはチームの実力をどう上げていくかという点に留まった。主将として取り組むべき課題だった反面、自分の成長を止めてしまった。

つけはリーグで回ってきた。3年の秋、瀬口の怪我もあり全勝が求められたが、勝ちたい相手に好きなようにさせてしまった。4年の春、やっとの思いで優勝が見え始めたがファイナルで負けた。ここぞというときに成長の停滞からくる自信のなさを露呈してしまったためである。にもかかわらず、多忙にかまけて自分のテニスと向き合うことが十分にできない状態が続いた。

進路関係が落ち着いた頃には引退の二文字が目の前にあった。泣いても笑ってもこれで最後と思うと、1つのリーグに変わりないのに平常心でいられなかった。厳然とせまる引退の前に目標を見失った。1年半十分に自分のテニスと向き合わなかったつけだった。漸く掴んだはずだった自己コントロールは機能せず、大パニックに陥った。結果秋リーグでは初戦で痛い敗北を喫し、初戦の敗北が優勝を逃す決定打となった。選手として昇格を果たせなかったことは悔やんでも悔やみきれない。

以上のように私の4年間は自分をどうコントロールするかに苦悩した時間だった。その未熟さゆえに最後まで満足いく結果は残せなかった。ただし、台風で2週間伸びた引退試合が救いとなった。残留が確定した中でもチームのベストを出すためにできることを1つずつ積み上げていったことで、自分にとり最高の試合をして引退することができた。中学生から直らない自分の悪い癖に自分で笑いながら、一橋でソフトテニスができた幸せをかみしめることができた。最後にわがままを受け止めてくれた後輩には感謝したい。

 

1個上も同期もいない女子部への入部を決めた1年の私を褒め称えたい。当時の決断のおかげで今後自分とどう生きていくか学ぶことができ、書き表せないほど沢山の大事な学びを得た。以上のような充実した4年間をくれた周囲への感謝は言葉にならない。共に過ごした部員はもちろん、活動を下支えしてくださった両親や球朋会の皆様にも感謝の気持ちでいっぱいである。今後は私がもらった幸せを後輩たちに還元したい。